子どもと携帯電話

北のM先生に読んでみてもらい感想を聞きたい記事(笑)

以下、それぞれの記事の、印象的な内容を引用。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/imadoki/060804_1st/」からの引用。

ところが、その携帯電話の功罪や安全性については、意外と見逃されているような気がする。たしかに、携帯電話のマナーについて報道される機会も増え、最近では低電磁波タイプの携帯電話も発売されるなど、少しずつ注目が集まりつつあるようだが、全般的に見れば、まだまだ携帯電話に対する問題意識は希薄といえるだろう。

最近は、電磁場の問題はあまり活発に取り上げられてないような気がするなぁ。

また、メールの問題もある。Cさんのいうように「電話だけなら」、ほぼ誰と話しているのか推測することもできないわけではないし、会話内容から子どもとの対話を試みることも(難しい側面はあるにせよ)不可能ではない。少なくとも、電話をしている子どもの表情を見ることができれば、楽しい会話なのか嫌な相手なのか考えるヒントにはなる。

それに対しメールは、まったく窺いしれない子どもだけの「切りはなされた世界」となってしまう。一心不乱にメールを打ちつづけている子どもの表情からは、どんな内容のメールを受発信しているのかは想像しにくいし、まして、どこの誰とメールのやりとりをしているかとなると、きわめて曖昧にしかわかっていない場合が多いのではないだろうか

M先生なら、乗ってきそうな話しだなぁ(笑)しかし、通話しているときの表情は、果たして信用できるのかな。もちろん、メールよりはましかもしれないけど。


http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/imadoki/060829_2nd/」からの引用。

もちろん、子ども達は、携帯が危険につながる可能性も孕んだツールだと取り立てて意識することはない。むしろ、携帯を持つことで、親や学校からの制約と切り離され、自由な自分だけの世界がひろがる期待感だけに目が向いてしまう。

ある意味で、携帯を持つことは、子どもからオトナへの通過儀礼なのかもしれない。ただ牧歌的な時代と違って、ひとつ選択を誤れば危険につながる時代なのだ。そこにこそ、携帯を持ちたいという子どもへの対応が難しい所以がある。

今も昔も子どもの素直さは一緒だけど、まわりの環境が変化してしまったということか。まぁ、ある意味ネットは「障壁のないもの」だから、それをどう説明するかにかかっているのでしょうね。

あまり肯定はしたくないが、「みんなが」という論理に我々オトナは弱い。「赤信号みんなで渡れば恐くない」ではないが、目だったり際立ったりしないで、全体にとけこむことを美徳とする風土もあるし、○○ブームといわれれば、誰も彼もが考えもせずついていく傾向はある。オトナの背中を見て育つ子ども達が、直感的にそれを嗅ぎとり「みんなが持ってるから」を理由にするというのは考えすぎだろうか。

かつての自分を振り返ると、ね(汗)


http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/imadoki/060912_3rd/」からの引用。

だからといって、料金の上限を「決めごと」にして、「携帯電話との付き合い方」に触れないままでは、いつまで経っても問題は見えてこない。

大人の理屈ではいかん、ということか。

だからこそ、チェーンメールにも子ども達は悩む。意思を伝えようと新しい表現や言葉を生みだす子ども達の根源的な純粋さが、社会的な経験の少なさと相乗し、チェーンメールの怪しい文面も、疑うのではなく、知ろうとし、理解しようとするからこそ、真剣に受け止めてしまうのだろう。

いくらオトナが「そんなのイタズラだよ」といっても、そこに目を向けなければ、子ども達の悩みがなくなることはない。

子どもの目線、相手の目線で説明できるか、ということでしょうか。これが結構難しいんだよなぁ(汗)とはいえ、携帯電話に関しては、大人も十分な知識を持っておかないといけないということでしょう。

取材の最後に「子ども達が携帯を持つということは?」と聞くと、明快な答えが返ってきた。「夜、渋谷のセンター街に、子どもを一人で遊びに行かせるのと同じこと」。実にわかりやすい例えである。

渋谷のセンター街か…大阪で言えばミナミ、神戸で言えば元町の高架下、京都で言えば先斗町とかか?(苦笑)いずれにせよ、想像に難しくないですね。大人が子どもにどう向き合うか、それを携帯電話を通じて問われているような気がしますね。