目的は理解できるが、手段が短絡的すぎる

先日、ケータイのフィルタリングについて高校生に話す機会がありました。とくに生徒からのフィードバックがあるものではなかったのですが、自分としては現在のケータイの諸状況を知るのに役立ちました。とくに、ITmedia +D Lifestyleの小寺さんのコラムは、とても参考になり今回の話の軸になりました。とくに、次の部分を意識してお話を組み立ててみました。

議論の中で、そもそも規制などすべきではないという意見は、事態を楽観視しすぎているように思う。始まりはねじれ国会の副産物だったかもしれないが、今の段階でなんらかの手を打とうという話になったのは、むしろ幸いだったのではないか。もちろんその「手」がフィルタリングでいいのかという点は議論しなければならないが、被害が拡大して、かつてのダイヤルQ2や伝言ダイヤルのように社会問題にまで発展して大規制、メディア消失という轍を踏まないだけ、マシだろうと思う。
そもそもの問題は、子供をダイレクトにターゲットにした詐欺というものがあるわけではなく、大人向けの詐欺に子供が引っかかるということである。それならばまず、ネットにおける詐欺というものの撲滅に向けて、ネット社会を形成する人間が動かなければならない。

携帯フィルタリング、やるべきはソコか? (3/3) - ITmedia NEWS

つまり、子どもたちをとりまくケータイの現状を考えると何もしなくていい状態ではないけど、フィルタリング「だけ」すれば、それで済む問題ではない。その前に、もっとできることあるでしょう、ということではないか、と解釈しました。

で今日、同じくITmedia +D LifeStyleに「児童ポルノ法改正」についてコラムを書かれていたのを読んで、けータイのフィルタリングの諸問題と同じ感覚をいただきました。規制したい側の基準で「臭いものにはふたをしろ」。そんな感じをいだきました。

現状を正確・冷静に見て判断し、適切な箇所に適切な対策を施す。どうして、こういうことができないんでしょうかね。感情がまったくいらないとはいいませんが、というか子どもを持つ親としてわからんではないが、単純な考えや感情だけで対策をしてしまえば、問題を複雑化・陰湿化させるだけじゃないんですかね。「ああしたら、こうなるかも」という議論をしっかりしてもらいたいものです。